どの様な現象も、起こりうる事に丁寧に、そして一所懸命に取り組もう。
全ては次のステージへ登るための試練である。
後で思い起こすと、その時の体験の豊かさに気がつく筈である。
どの様な現象も、起こりうる事に丁寧に、そして一所懸命に取り組もう。
全ては次のステージへ登るための試練である。
後で思い起こすと、その時の体験の豊かさに気がつく筈である。
自然界の摂理には、空間だけでは人にとって足らない部分として、時間という概念を取り入れました。
その時間という概念の中で、必然的に起こる現象と自分自身が持って生まれた役割に気づき、今世では何をすべきか?という事が宿命に現れている。
こう言った事を、学問として学んでいるうちに必然的に、自分自身は何をすべきか、とか、その為にどういった味方、別の表現で後押しをしてくれるエネルギーを持っている。
そんな事を少しずつ、感じ始める機会を得ることができました。
また、単純だけど何の為に生きている?という回答は、全ての人は幸せになる事を権利として持っているという事です。
然し乍ら、昨今の資本主義社会の中では、お金という、本来は便利になる為の物々交換の時代から、紙切れに管理を付けてルールとして証券をばら撒いた。交換出来る価値を紙切れに託した、それがいつしか権力の象徴となり、お金が全てと言った悲しい💔社会へとなってきました。
この様な仕組みは如何なものなのでしょう?
中途半端な文面になりましたが、次回また機会があれば続きを投稿して行きたいと思います。
刹那、刹那的、いろんな形容があります。
良く密教者が結界の為に、指をパチンと一回はじく、この瞬間が刹那の長さと言われている。
なんと、このパチンとはじいた際になる音の間に65刹那あるらしい。
その様な事はさておき、大切な事は目の前の事に向き合い、一生懸命に取り組む、それが自分のこの瞬間を生きているあかし。
過去を悔いる事もなく、未来に不安や夢を抱く事もせず、目の前に真っすぐに向き合い可能な限りの行動をおこす。
今を生きるとは、まさにこの事である。
それが悔いなく生きるというという本来の意味と思います。
書くのは簡単に見えてると思いますが、実際は愚直に目の前に現象を真面目に取り組むことにより本当に自分を取り巻く全ての変化を感じるようになります。